このカテゴリには 15 ページが含まれており、そのうち以下の 15 ページを表示しています。 DietrichKöster(2004)。ポルトガルの植民地の独立に関するデータ。 Colonialvoyage.com; ポルトガルの植民地の歴史の地図。 (改訂:2014年3月) Wikimedia.org; コロネットフィルム(2016)。スペインとポルトガル歴史と地理ドキュメンタリー16mm教育フィルム. 日本の戦国時代初期、世界の大半を植民地としていたポルトガル。ポルトガルが植民地にしていた支配地域はマニラ、ゴア、マラッカ、など多くの地域を支配していました。またポルトガルと同じくらい植民地を持っていたスペイン。 この世界二強のスペインとポルトガルはトルデシリャス条約を締結します。この条約は簡単に言うと世界をポルトガルとスペインで半分にしましょうと言うとんでもない条約でした。 その後ポルト … リスボンにはイスラーム時代からの古い町並みが残っている。テージョ川に面したアルフ ... 一日のうちに四季があるという慣用句は、いまの時期のリスボンを表したものに違いない ... フンシャルの市場には果物がたくさん売られている。 ぼくは果物が大好き。 日本にい ... アンダルシアからポルトガルへやってくると、緑が多く空気が潤んでいる。 ほとんど同 ... 暑い日が続くなあ。 だからというわけではないが、涼しげな風景を求めて山間の古い町 ... WordPress Luxeritas Theme is provided by "Thought is free". ポルトガルの植民地と貿易 1509年、インド西海岸ディウ沖の戦いで、フランシスコ・デ・アルメイダの率いるポルトガル船隊は、すでにインド洋全域にわたって商業支配権を維持していたマムルーク朝の艦 … 長く植民地からの搾取に頼っていたので、産業はあまり発展していない。農産物では、ジャガイモ、ブドウ、オリーブが栽培される。水産業も盛んであるが、食糧の半分を輸入している。林業ではコルクの生産が世界一である。 ひなびたヨーロッパの片田舎のポルトガルは、15世紀までは今よりもっとひなびた国だった。そのポルトガルが、15世紀に大航海時代が始まると、隣国のスペインと共に地球の各地に兵を送り海洋帝国を築いた。, それまで小さな国に閉じこめられていた人たちが、一転して地球の裏側を武力で領地とするようになった。大航海時代と呼ばれる、世界史の大きな転換期である。ポルトガルとスペインは競争しながら世界を領地としていった。そして両国の軍事衝突を避けるために地球を半分に分けてそれぞれが領有する条約を結んだ。トリディシリャス条約といって高校の地図帳にも載っているから、覚えている人もいるかもしれない。, トリディシリャス条約によって地球上に1本の線が引かれ、緑色はポルトガル領、オレンジ色はスペイン領と決められた。1494年にローマ法王の承認を得て条約は正式に有効となった。, これによってユーラシア大陸とアフリカ大陸全域、南米の一部がポルトガル領となった。なんとメチャクチャな条約であるが、当時のローマ法王庁は本気でこれを認めている。もちろん、ポルトガルとスペインも本気だった。, 「日本は、ポルトガル国王とポルトガル国民の征服に属する国」と記された公文書が残っている。16世紀のイエズス会宣教師が書いたものだ。一方、スペイン人宣教師はこれを認めず「日本はカスティーリャ(スペイン)国王の征服に属する」と主張していた。, 上の地図を見ると、ポルトガルとスペインの境として引かれた線は日本の本州を通っている。実は、1494年にトリディシリャス条約が結ばれたとき境界線は大西洋にのみ引かれていた。この時代は、地球の反対側ことを知らなかったからだ。その後16世紀になり両国が太平洋に進出すると境界線も延長された。すると境界線が日本の上を通ることが分かった、日本がどちらの国の領土なのか、当時のポルトガル人とスペイン人のあいだで確執がおきた。, ポルトガル人とスペイン人のつばぜり合いは1580年に終わる。スペイン国王フェリペ2世がポルトガルを併合したため、世界は「太陽の沈まぬ帝国」スペインに属することになったためだ。, キリスト教宣教師は、日本をキリスト教国に変える計画をもっていた。最終的には日本の軍事力をつかって明国を征服し、アメリカ大陸からアジアまで世界征服をたくらんでいた。宣教師の活躍によって、高山右近などキリスト教に帰依する大名が現れ布教が順調に進んでいたかのようにみえたが、やがて頓挫した。, スペインがどうやって世界各地を領地化したかを、スペイン人宣教師が自慢して豊臣五大奉行のひとり増田長盛にしゃべってしまったのだ。, その方法とは、まずキリスト教を布教する。ある程度の影響力を確保したら現地のキリスト教徒を使って内乱を起こす。そこへスペインから軍隊が到着して一気に既存の政府を倒す。南米を征服した方法で、スペインの兵力を損なわずに現地人を兵士として活用するのだ。, 報告を受けた秀吉の動きは速かった。キリスト教を禁教とし、宣教師を追放した。150年に渡る戦国時代がようやく終わろうとしていた日本にふたたび内乱を起こされてはかなわない。秀吉の決定は徳川幕府にも引き継がれて、日本はポルトガルと国交断絶。キリスト教はその後300年に渡って邪教と認定されてしまった。それもこれもポルトガル人とスペイン人の宣教師たちの貪欲さがもたらした結末であった。, もともと、秀吉はイエズス会が日本人を奴隷として海外へ売り飛ばしていたのを苦々しく思い、キリスト教に不信感をもっていたことが記録に残っている。, 日本人が数百人、男女問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖をつけて船底に追い入れた。地獄の呵責よりひどい。その上、牛馬を買い取り、生きながら皮を剝ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち、日本が外道の法になってしまうことを心配する。(秀吉の右筆・大村由己「九州御動座記」P134~135), 余談だが、太閤が明国征服の第一歩とした朝鮮出兵は、イエズス会のアジア征服計画を自分のものにしたという説がある。おそらくそうだろう。イエズス会は日本史のみならず、アジア史に大きなキズを残した。そしてアメリカの先住民が被った悲劇ははるかに大きかった。, 最終的に、日本はポルトガル領にもスペイン領にもならなかった。その理由は日本の軍事力と政治力が優れていたからだ。16世紀末には、ちょうど戦国時代ということもあって、世界の鉄砲の1/3が日本で生産されていた。武士にとってもすでに刀は飾り物で、戦場では実際にはほとんど使われていない。そして銃砲をつかった戦法は世界最先端の水準であった。フランスよりも10年進んでいたことが戦史をみると分かる。, 仮にスペイン軍やポルトガル軍が数千名の兵力で上陸したとしても、あっさりと返り討ちされたことだろう。, 16世紀末の日本は軍事力だけでなく、統治力もまた盤石であったが、そうではなかったアジアやアメリカの国々はやがて西欧各国の植民地になる運命を辿ってしまった。, それから数百年が過ぎ、ポルトガル人やスペイン人の世界制覇の夢は、遠い昔に潰えた夢となった。ポルトガルは海外植民地をすべて失った。いまのポルトガル人やスペイン人のどこを見てもそんな大それた夢を見た人たちの子孫とは思えない。 世界史の登場人物たちはダイナミックに動き、そしていつの間にか退場していくのだなあ。と感心しつつ帰国の途につくのであった。. ... 持った大航海時代には、ブラジルをはじめとする大植民地時代の繁栄の時代、やがて海外植民地の独立など帝国の衰退が始まり、20世紀の後半まで政治的に混乱の時代が続いて … カテゴリ「ポルトガル植民地建築の世界遺産」にあるページ. ゴアの地図 植民地時代のインドの地図 黄色でマークしてある都市がポルトガル領 1955年のゴアの詳細地図(北部・中央部) (南部) ゴアの衛星写真 (google map) 大航海時代にアジアで多くの植民地を築いたポルトガルの本拠地がゴア。 モザンビーク共和国(モザンビークきょうわこく)、通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制を取る国家で、首都はマプトである。南に南アフリカ共和国、南西にエスワティニ、西にジンバブエ、北西にザンビア、マラウイ、北にタンザニアと国境を接し、モザンビーク海峡を隔てて東にマダガスカルとコモロが存在する。, 旧ポルトガルの植民地であり、1964年からモザンビーク独立戦争を戦い抜いた後の1975年に独立を達成した。しかし独立後も政情は不安定で、1977年から1992年までモザンビーク内戦が続いた。内戦終結後は好調な経済成長を続ける反面、HIV感染とAIDS発症の蔓延が問題となっている。, ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国ではあるものの、隣接国が全て英語圏の国家であるため1995年からイギリス連邦に加盟している。, 正式名称は、ポルトガル語でRepública de Moçambique(IPA: /rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ/ レプーブリカ・デ・ムサンビーケ)。通称、Moçambique(ムサンビーケ)。, 公式の英語表記は、Republic of Mozambique。通称、Mozambique(モウザンビーク)。, 日本語の表記は、モザンビーク共和国。通称、モザンビーク。国名はかつてポルトガル領東アフリカの首都が置かれたモザンビーク島に由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の1975年から1990年まではモザンビーク人民共和国だったが、1990年の憲法改正により現在のモザンビーク共和国となった。, この地域には約300万年前から人類が居住し、生活していた。紀元前後にはサン人(ブッシュマン)が居住していたものの、次第にバントゥー系アフリカ人諸部族が広範囲に分布するようになった。紀元前1世紀にはギリシャ人・ローマ人[要曖昧さ回避]が沿岸部住民と交易するようになった。8世紀にはアラブ人の商人が金・銀を求めて港に現れるようになった。, この地域の記録に残る歴史は、11世紀から19世紀の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称したモノモタパ王国に遡ることができる。現在のジンバブエを中心に栄えたモノモタパ王国は、スワヒリ文明最南端に位置した都市である現モザンビーク領のソファラを拠点に、アラブ人の商人と香辛料や象牙、金などの交易を行っており、中国の陶磁器や、インドの綿製品も手に入れていた。, 1498年にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてこの地に到達したのをきっかけに、16世紀初頭より、ポルトガルの植民が始まり、17世紀半ばにはポルトガルの植民地支配が確立し、ポルトガル領モザンビーク・東アフリカ(英語版)(ポルトガル語: Estado da África Oriental、通称ポルトガル語: Província Ultramarina de Moçambique)の首都はモザンビーク島に置かれた。モザンビークからは遥か遠くのブラジルにまで黒人奴隷が連行された。1782年にロウレンソ・マルケスが建設された。1807年にイギリスが奴隷貿易を禁止した結果、西アフリカから奴隷を輸出することが困難になると、ポルトガルはブラジルへの新たな奴隷供給地としてモザンビークに目を向け、ザンジバルを拠点にしたサイイド・サイード王の奴隷貿易と相俟って、19世紀前半の東アフリカ内陸部は、拡大する奴隷貿易の輸出用奴隷供給地となった[2]。, 19世紀に入り、1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたものの、劣悪な労働環境による契約労働制により、事実上は奴隷労働制度が継続していた。19世紀末に進んだアフリカ分割の中でポルトガルは、モザンビークとアンゴラを横断しようとする「バラ色地図(ポルトガル語版)」計画を発表した。しかし、1890年にイギリスの圧力に屈したポルトガルは、ザンビアとジンバブエとマラウイの領有を諦め、1891年の条約で現在のモザンビークの領域が確立された[3]。また、同1891年にポルトガル領モザンビーク(英語版)総督はイギリス・フランス資本の勅許会社、モザンビーク会社(英語版)・ニアサ会社(英語版)・ザンベジア会社(ポルトガル語版)に開発の権利と司法権を除く自治権を与えた。このためポルトガルが旧宗主国であるにも拘らず、独立後にイギリス連邦の加盟国となっている。また、ポルトガルの圧政に対して、例えば1894年のロウレンソ・マルケス襲撃など、先住民による抵抗運動が頻発したものの、それらは全てポルトガル軍により武力鎮圧された。, 1898年にモザンビーク島からロウレンソ・マルケスに植民地の首都が遷都され、以降ロウレンソ・マルケスはポルトガル領東アフリカの首都となった。, 第二次世界大戦が終結し、世界的に脱植民地化の流れが出てくると、アフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立が叫ばれるようになり、その影響はモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権は、1951年にモザンビークなどのアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。モザンビークやアンゴラは、形式上ポルトガル本国と同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、モザンビークには3800万ポンドが投資された。さらに、リンポポ川流域へのポルトガル人の入植や、港湾の能力拡大のための鉄道建設が進められた。ただ、モザンビーク植民地の慢性的なポルトガルへの輸入超過を補うために、南アフリカ連邦の鉱山への黒人労働者の出稼ぎによって経済は支えられた。, その後、形式上に過ぎない本国ポルトガルとの対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも1964年9月に、エドゥアルド・モンドラーネを議長としたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始し、モザンビーク独立戦争が始まった。マルクス主義を掲げ、ソ連と中華人民共和国の援助を受けていたFRELIMOは、冷戦構造の中で西側諸国の脅威であり、そのためポルトガル軍も強権を以て解放軍に対処した。1969年にモンドラーネは暗殺されたものの、サモラ・マシェルらが後を継いで独立戦争を継続。約10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として完全独立を果たした。, 1975年の独立後、出国したポルトガル系モザンビーク人に代わって権力を握ったFRELIMOは政党化し、一党制による社会主義路線を推進した。社会主義を掲げるモザンビークは1976年の国連制裁決議に従って、白人国家ローデシアの国境を封鎖した。ただ、この措置はモザンビークとローデシア双方の経済に大打撃を与えた。, 1977年にローデシア諜報機関によって、ポルトガル領時代の秘密警察であったPIDE(英語版)を母体として結成された反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(MNR,RENAMO)は、政府軍と衝突してモザンビーク内戦が勃発した。イデオロギー的正当性を欠いていたRENAMOは、当初は成人男子や少年を強制徴収することによってしか兵力を集めることができず[4]、暴力と恐怖を旨に学校や病院への襲撃作戦を遂行した。, 1980年にローデシアが崩壊し、黒人国家のジンバブエが独立すると、アフリカにおける反共産主義の砦を自認していた南アフリカ共和国は、ローデシアに代わってモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を仕掛けた。南アフリカをはじめとする西側諸国の援助を受けたRENAMOは、農村部で略奪、暴行を激化させたため、1984年にはモザンビークと南アフリカ両国の間にンコマチ協定(英語版)が締結され、南アフリカはRENAMOに対する支援を、モザンビークはANCに対する支援を相互に打ち切り、両国の間で不可侵条約が結ばれた。しかし、その後も実質的にこの協定は反故にされ、以降も南アフリカによるRENAMO支援が続けられた[5]。さらに、1986年にはマシェル大統領が事故死し、後任としてジョアキン・アルベルト・シサノが新たな大統領に就任した。, 内戦が長期化し、経済が疲弊する中で、1989年に東側諸国の勢力低下と合わせてシサノ大統領率いるモザンビーク政府は、社会主義体制の放棄を決定し、翌1990年に複数政党制と自由市場経済を規定した新憲法を制定した。これにより反共産主義を掲げていた南アフリカなどから干渉される理由が少なくなった。さらに、1990年から1991年にかけての大旱魃の影響もあり、和平交渉の結果、1992年にローマ和平協定(英語版)がローマで締結され、内戦は終結した。, 内戦後の新政権樹立のため、1994年10月に国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙及び議会選挙を実施された。この結果、与党のFRELIMOが勝利し、新政権が創設された。, 1995年に南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結び付きを深めるため、それまでオブザーバーとして参加していたイギリス連邦に正式に加盟した。ただ、翌1996年にはポルトガル語世界(ルゾフォニア)との結び付きを深めるために、ポルトガル語諸国共同体にも加盟した。1998年にはアルミニウム精錬を行うモザール社が、南アフリカと日本などの投資により誕生した。, シサノ大統領は2003年にはアフリカ連合(AU)の第2代総会議長に選出され、更に引退後の2007年にはモ・イブラヒム賞の第1回受賞者となった。2005年の大統領選挙では、与党FRELIMOからアルマンド・ゲブーザが新たに大統領に就任した。ゲブーザは2009年の大統領選挙でも勝利した。2014年1月には中華人民共和国の援助で新しい大統領府が建設された[6]。, なお、和平協定締結後は比較的安定した政治と、アルミニウム精錬を行うなどして年率8%の経済成長を実現したものの、国民の約半分貧困ライン以下である[7]。しかも内戦時代には学校への襲撃もあったなど教育は立ち遅れている。国民の教育水準は低いままで、識字率は60%程度に過ぎない。慢性的な医師不足の改善も進まず、教育水準の低い国民はHIV感染者が多く、AIDSの蔓延が深刻な問題となっている。2018年において平均寿命は60.2歳をであり[8]世界平均より12年短い[9]。, 新たな有力産業として、東方のインド洋沖を含めて天然ガス開発が進んでいる。モザンビーク政府は、2020年代には液化天然ガス(LNG)輸出拡大により高い経済成長を持続することをめざしている[10](「鉱業」も参照)。, 大統領を国家元首とする共和制をとっている。大統領は1994年1月以来、直接選挙で選出され、任期5年。大統領の他に行政府の長たる首相が存在する。, 立法府たる共和国議会(en:Assembly of the Republic (Mozambique))は一院制であり、全250議席は全て直接選挙によって選出される。任期5年。1994年1月に国民選挙委員会が設置された。, 主要な政党としては、社会民主主義・民主社会主義のモザンビーク解放戦線 (FRELIMO)、保守主義のモザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE)、中道右派のモザンビーク民主運動(en:Democratic Movement of Mozambique、MDM)の名が挙げられる。, モザンビーク国防軍は陸軍、海軍、空軍から構成されている。総人員は約11,200人であり、徴兵制を採用している。2018年の軍事支出は国内総生産(GDP)の0.99%だった[11]。, 独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるFRELIMOだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結び付き、親西側の立場から反政府ゲリラを支援するローデシアや南アフリカ共和国などとは敵対政策が続いた。冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。, ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルやブラジル、カーボベルデ、アンゴラなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。, 周辺諸国との関係においては、特に南アフリカ共和国との関係が経済的に大きい。また、タンザニアとは独立戦争以来の友好関係が存在する。, 隣接国が全て英語圏であるため、1987年からイギリス連邦のオブザーバーとなっていた。モザンビークが南アフリカとジンバブエの民主化に大きな役割を果たした功績が認められたため[12]、1995年に正式にイギリス連邦に加盟した。, 織田信長の家来として活躍した弥助は、現在のモザンビークにあたるポルトガル領東アフリカ出身で、1581年にイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノにより日本に渡航したと推定される。また、1582年にヨーロッパへ向かった天正遣欧少年使節が、帰路にて1586年にモザンビーク島に寄港し、約6か月間をすごした[13]。1980年代以降日本に留学する者が現れており、ベンビンダ・ツレのように長期間の留学を経て日本で就職後帰国した者もいる。このベンビンダは小学生向けの学習雑誌に読み物が掲載される、帰国の年にはラジオ番組で特別企画が長期間にわたって組まれるなどして多くの日本人に名前が知られた。第5回アフリカ開発会議中の2013年6月1日に、横浜で日本との間に投資協定が結ばれた[14]。, モザンビークは、10の州(província,プロヴィンシア)、及び、州と同格の1つの市(cidade,シダーデ)に分かれる。, モザンビークの国土面積は、802,000 km2であり、これはアメリカ合衆国のカリフォルニア州の約2倍に相当する。国内最高峰はビンガ山(2436m)である。2500 km以上におよぶ海岸線には、熱帯のビーチとサンゴ礁の浅瀬が見られる。マダガスカル島とはモザンビーク海峡を挟んで向かい合っている。, モザンビークには5つの大きな河川が流れており、最も大きく重要なものはザンベジ川である。国土はザンベジ川によって地勢上、2つの地域に分かれる。ザンベジ川の北では、なだらかな海岸線が内陸部に入って丘陵や低い台地である。その西は、ミオンボ森林に覆われたニアサ高原やナムリ高原(シレ高原)、アンゴニア高原、テテ高原、マコンデ台地のような険しい高原である。なお、主要な湖としては、ニアサ湖(またはマラウイ湖)、シウタ湖、シルワ湖と3つが挙げられ、これらはいずれも北部に位置する。ザンベジ川の南では、低地は広く、マショナランド台地とレンボ山地が深南部に存在する。, 一方、南部アフリカの山脈であるレボンボ山脈(英語版)の一部が同国に繋がっており、その姿を眺めることが出来る。, ケッペンの気候区分によれば、気候は熱帯雨林気候とサバナ気候に分かれるが、首都のマプトが位置する南部は冬季には平均気温が20 ℃以下まで下がり、5月から9月までは比較的しのぎやすい。, 通貨は新メティカルであり1000:1のレートで旧メティカルと置き換わっている。旧通貨は2012年末までにモザンビーク銀行によって償還された。USドル、南アフリカランド、そして近年ではユーロもまた広く受け入れられ、ビジネスの取引で使われている。法定最低賃金は月60USドルである。モザンビークは南部アフリカ開発共同体(SADC)の加盟国である。, 鉱産資源開発が活発化する前は、第1次産品である農産物の生産が主であった。日本向け輸出はエビが多かった。ただ、鉱産資源に恵まれており、その生産も活発化してきた。, 1980年代は内政の失敗に加え、内戦や旱魃などで経済は壊滅状態に陥った。内戦終結後も、1999年、2000年と続いて起きた大洪水などの自然災害などで経済は打撃を受けていたが、1990年代後半以降から経済が急速に発展しており、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成した[17]。, 日本の三菱商事も出資したアルミニウム精錬事業のモザール社(主たる出資はBHPグループ)は、2000年より事業を開始した。国内最大級企業であるモザール社は、オーストラリアのアルミナを原料として輸入した上で、南アフリカから供給される豊富・安価な電力のもとに溶融塩電解を行ってアルミニウムの地金として輸出しており、モザンビークの輸出市場での位置づけは高い。背景として、植民地時代にポルトガルが建設した、モザンビーク北西部のテテ州にあるザンベジ川流域のカオラ・バッサダムで水力発電を行い、大量の電力を南アフリカに供給・売電していることがある。そのことが、南アから安価な電力をモザールに対して安定供給するシステムへとつながった。, 2010年9月1日、首都マプトでパンの値段が30%引き上げられたことへの抗議がきっかけとなり暴動が発生した。警官隊が発砲し、子供2人を含む市民7人が死亡した。2日、政府はデモ隊が築いたバリケードを取り除くために軍隊を導入した。民間テレビ局STVでは10人が死亡し、27人が重軽傷を負い、140人が拘束されたと報道している。モザンビークは国民の70%が貧困ライン以下で世界で最も貧しい国の1つである[18]。, モザンビークは石炭や宝石などの鉱物資源に恵まれており、資源開発が行われている。2012年からは大規模な天然ガス田の資源が沖合いに発見され注目を集めている[19]。鉱物資源の背景は、モザンビーク北東部の地層が南北方向に傾いたモザンビーク帯と、東西方向に傾いたザンベジ帯間の分岐合流点に位置し、新原生代(約8~5億年)の造山帯であることから、長年の複合的な熱と変形がルビーやガーネットなどの鉱物形成に理想的な温度と圧力をもたらしたと言われている[20]。この他、鉄鉱石やマンガン、チタン(重砂)などもある。, 1980年代後半からルビーが産出されるようになり、特に2009年以降になると世界のルビー需要を担うようになってきている。北東部でのルビー採鉱、またパライバトルマリンも産出されており、ブラジル産やナイジェリア産のパライバトルマリンが枯渇している現状では良質な宝石質のパライバトルマリンはここでのみの産出となっている[23]。, マクア人(英語版)(Emakhuwa)・ロムウェ人(フランス語版)(Elomwe)が40%、マコンデ人、シャンガーン人、ショナ人、スワジ人などのバントゥー系黒人の諸民族が国民全体の99.66%を構成し[11]、その他メスチーソ(黒人と白人の混血。ムラート)が0.2%、インド人(印僑)が0.08%、ポルトガル系モザンビーク人を主とする白人が0.06%とごく少数の非黒人系マイノリティが存在する[11]。2007年時点では1,500人から12,000人に達する規模の中国系コミュニティが存在するとも推定されている[24][25]。, 2010年代初頭より、経済的停滞が続く旧宗主国ポルトガルから経済的に勃興を遂げつつあるモザンビークに専門職従事者の移住が進んでおり、首都マプトには約2万人のポルトガル人が存在すると推定されている[26]。, モザンビークの公用語はポルトガル語(モザンビーク・ポルトガル語(英語版))である。その他、バントゥー諸語(マクア語、セナ語、ツォンガ語、ニュングウェ語、チェワ語、ショナ語、ロムウェ語、マコンデ語、ツワ語(英語版)、ロンガ語(英語版)、チョピ語(英語版)、ヤオ語、コティ語(英語版)、ンワニ語(英語版)等)や、北部ではスワヒリ語も用いられる。, モザンビークの言語状況は複雑である。1997年の国勢調査によれば公用語のポルトガル語を第1言語とする人々は国民の8.8%であり[11]、第2言語とする人々の27%[11]を合わせても35%ほどにしかならない。バントゥー諸語も最大話者数を擁するマクア語でも26.1%程にしかならず[11]、諸言語が混在する状態にある。, 2017年の推定によれば、カトリック教会が27.2%、ザイオニスト教会(Zionist Churches)が15.6%、イスラームが18.9%、ペンテコステ派が15.3%、無宗教が13.9%である[11]。, 1975年にポルトガルから独立して以来、学校建設と教員の訓練登録は人口増加に追いついていない。特にモザンビーク内戦(1977-1992)の後、就学数は着実な若年人口の増加のため常に高くなっており、教育の質は煽りを受けている。全てのモザンビーク人は法律によって初等教育レベルの学校に出席することを義務付けられているが、多くのモザンビークの児童は家族の生活のために農場で働かなければならないため、初等学校に通っていない。2007年時点でも、100万人の児童が未だに学校に通っておらず、彼らの多くは農村部の貧しい地域出身である。モザンビークの教員のほぼ半数は未だに無資格である。女児の就学数は2002年に300万人だったのが2006年には410万人に増加し、修了率も31,000人から90,000人に増加したが、修了率は著しく低い水準を保っている。[27]。7年生の後、生徒は中等学校に通うために標準化された国家試験を受けねばならず、中等学校は8年から10年までである[要出典]。モザンビークの大学の枠は極端に限られており、そのため多くの準大学教育を終えた学生はすぐには大学の勉強に進めない。多くは教員として働くか、無職となる。職業訓練を提供する機関も存在し、農業学校、工業学校、教育学校などは10年生の後に開ける準大学である。, 2017年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は60.7%(男性:72.6%、女性:50.3%)である[11]。ただ、植民地時代の1950年時点では、非識字率が97.8%であった[28]。2005年の教育支出はGDPの5.0%だった[11]。, 主な高等教育機関としては、エドゥアルド・モンドラーネ大学(1962年)やモザンビーク教育大学の名が挙げられる。, 出生率は女性1人につき、約4.97人である[11]。2004年の保健への公的支出はGDP比2.7%であり、一方で同年の私的支出は1.3%だった[29]。2004年の1人当たりの保健費は42USドル(PPP)だった[29]。2000年代初頭には、人口100,000人に対して医者が3人だった[29]。2005年の乳幼児死亡率は新生児1000人に対して100人だった[29]。15歳から49歳までのHIV感染は10%を越える[29]。, モザンビークのHIV感染率は高く、2019年のHIV感染者は約220万人であり[11]、感染率は12.1%である[11]。, 2017年、マラリアとコレラの流行が深刻化した。マラリアは2017年1月から3月の間に148万人が診断され、288人が死亡した。コレラは3年連続の流行となり1222人が感染し、うち2人が死亡している[30]。, イスラームの沿岸商人とヨーロッパの植民者の影響があったのにもかかわらず、モザンビークの人々は小規模農業に基づいた土着の文化を保っている。モザンビークで最もよく知られたアートの様式としては、モザンビーク北部のマコンデ人による木彫品とダンスが特に有名である。中流階級や上流階級はポルトガル植民地時代の遺産と、言語的影響を今も強く受けている。, 文字によるモザンビークの活字文学は、植民地時代の20世紀前半にルイ・デ・ノローニャ(ドイツ語版)によるポルトガル語の詩によって始まった[31]。これは、アンゴラやカーボベルデといった大西洋側のポルトガル植民地に比べて、約半世紀遅れたものだった[31]。その後、植民地主義を批判する詩を残した女性詩人ノエーミア・デ・ソウザや、後の1991年にカモンイス賞を受賞し、ポルトガル語世界において偉大な詩人の1人とされる[31]ジョゼ・クラヴェイリーニャにより、モザンビークのポルトガル語詩は発達を続けた。独立後には、マルクス主義的なプロパガンダ詩が目立つようになった。独立後の注目される詩人としてはルイス・カルロス・パトラキン(英語版)の名が挙げられる。, モザンビークの小説の歴史は、ジョアン・ディアス(ドイツ語版)によってポルトガル語で書かれた『ゴディド』(1952年発表)によって始まった[31]。その後の代表的な作家としては『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』(1964)で国内外からの評価を得た[31]ルイス・ベルナルド・ホンワナや、1980年代から活動し、『夢遊の大地』(1992年)などで新語の創造に励むミア・コウト、『ウアララピ』(1987)でデビューしたウングラニ・バ・カ・コーサなどの名が挙げられる。, モザンビーク国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件存在する。, モザンビークではサッカーが盛んである。しかし、2018年現在もモザンビーク代表のFIFAワールドカップ出場経験はない。植民地時代には、エウゼビオなどの選手がポルトガル代表として活躍し、指導者ではカルロス・ケイロスを輩出している。, 陸上競技ではマリア・ムトーラがシドニーオリンピック女子800 mで金メダルを獲得している。, A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳3 『ポルトガル3──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.36-40。, 舩田クラーセンさやか「紛争後モザンビーク社会の課題──村に戻らない人々」『朝倉世界地理講座 アフリカII』池谷和信、武内進一、佐藤廉也編、, レナード・トンプソン/宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史【最新版】』, 市之瀬敦『ポルトガルの世界 海洋帝国の夢のゆくえ』社会評論社、2001年12月 pp.164-165, A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス 『ポルトガル3』 金七紀男訳、ほるぷ出版〈世界の教科書=歴史〉、東京、1981年11月1日、初版、163頁。, 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月, “China Built New Presidential Palace in Mozambique”, http://www.iceida.is/english/main-activities/mozambique/, http://bizgate.nikkei.co.jp/special/emerging/topics/index.aspx?n=MMBIb4000020122012, http://www.jogmec.go.jp/library/recommend_library_10_000004.html, “莫桑比克华侨的历史与现状 (The History and Status Quo of Overseas Chinese in Mozambique)”, https://web.archive.org/web/20110617044234/http://scholar.ilib.cn/A-xyfz200705010.html, “China, Mozambique: old friends, new business”, http://www.isn.ethz.ch/isn/Current-Affairs/Security-Watch/Detail/?id=53470&lng=en, http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34805, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=モザンビーク&oldid=80775405, Dia das Forças Armadas de Libertação Nacional, 1998年6月、地方選挙が実施された。投票率はきわめて低く、33自治体の平均投票率が15%に満たなかった。この背景には、教育水準の低位と環境の不整備などが挙げられる。, 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク──「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月。. 大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?すいません、もう一つ。幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが ポルトガル王国は、15世紀のヨーロッパ人の世界探検において先駆的な国であった。 リスボン ポルトガル 地図. 1500年4月22日、インド洋に向かっていたポルトガルのペドロ・アルヴァレス・カブラルの船団は、未知の陸地に漂着し、これを「ヴェラ・クルス島」[註釈 4]と名付けた。カブラルが上陸したのは現在のバイーア南部のポルト・セグーロだとされている。「サルとオウム」しかいなかったこの地は、トルデシリャス条約に基づいてポルトガルに帰属することとされたものの、その後暫くは開発が進むことはなかった。1503年にヨーロッパで需要のあった赤い染料「ブラジリン」を抽出できるパウ・ブラジル (葡… ポルトガル海上帝国(ポルトガルかいじょうていこく、ポルトガル語: Império Português)は、15世紀以来ポルトガル王国が海外各地に築いた植民地支配及び交易体制を指す。新大陸発見後はトルデシリャス条約によりスペインと世界を二分した。領域支配より交易のための海上覇権が中心であったので、このように呼ばれる(オランダ海上帝国も同様である)。それゆえ、既存の大国であったアステカ帝国やインカ帝国の、それぞれの中心地域であったメキシコおよびペルーにおける領域支配を中心とした … レファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。参加館の質問・回答サービスの事例、調べ方、コレクション情報など調査に役立つ情報を公開しています。 ポルトガルはアジアには沿岸部の飛び地みたいな植民地しか持っていませんでしたが、アフリカ大陸にはアンゴラやモザンビークといった巨大な植民地を持っており、新大陸には最大の海外領土であるブラジルを有していました。 上の地図を見ると、 ポルトガルとスペインの境として引かれた線は日本の本州を通っている。 実は、1494年にトリディシリャス条約が結ばれたとき境界線は大西洋にのみ引かれていた。 ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化(ポルトガルによるアメリカたいりくのしょくみんちか)では、大航海時代におけるポルトガル王国の植民活動のうち、新世界における活動について説明する。. // この画像はネット上に出回っているもので、第二次大戦前の世界地図だとされている。日本とタイ以外の地域はすべて欧米の植民地であり、日本が植民地化されるのも時間の問題だった。だから、日本は反撃に出るしかなかった──。この画像には、しばしばそんな解説が添えられる。