夏目漱石の能力とは? 夏目漱石の異能力は「吾輩は猫である」です。 詳細は不明ですが、太宰は「万物を見抜く最強の異能」と話しています。 神出鬼没でどんな調査機関にも尻尾を掴ませません。 The novel "文スト短編 ギャグ詰め" includes tags such as "文豪ストレイドッグス", "旧双黒" and more. 夏目友人帳と文豪ストレイドッグスのクロスオーバーです。ナチュラルに世界観が一緒です。 *捏造過多 *自己満足 *なんでも … 夏目漱石の『こゝろ』とゲーテの『若きウェルテルの悩み』との関連性と比較( 73 ) つまり漱石は『しがらみ草紙』に連載された未完のもの、またはドイツ語か ら完訳されたもの、または英訳版5のいずれかは読んでいた可能性が高い。 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者、俳人。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。, 江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。, 講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』などを書く。その後朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』『それから』などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『道草』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。, 夏目 金之助(後の漱石)は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった[6]。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、金之助は望まれない子として生まれたといえる。, 名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。, 金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[7]。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。, 金之助はその後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった[8]。しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。, 1874年(明治7年)、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学後、金之助は市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校)[注 2]に入学したが、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため、中学には2年ほどの在籍で1881年(明治14年)に中退し、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学する。ただし、長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている[9]。しかし、長兄・大助が文学を志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。, 2年後の1883年(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎[注 3]に入学し、頭角を現した。, 1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。その友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁となる中村是公がいる。予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、金之助は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた[注 4]。, 1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。この時に初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。, 同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。, 1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。, 翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退。, 1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。, 1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。, 1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。, 1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた[10]。, 1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。9月10日に日本を出発[13]。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。, 1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており[14]、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという[15]。, 当時の漱石最後の下宿の反対側には、1984年(昭和59年)に恒松郁生によって「ロンドン漱石記念館」が設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの欧州連合(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館[16]。漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開された[17]。, 1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国[18]。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった[注 5]。, 東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、前任者であった八雲の、一度口を開けばたちまち教室全体を詩的空気に包み込み酔わせてしまうような講義に対し、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こったり、不平不満を陰口にされて貶されるなどした。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、ある授業中に態度の悪さを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺してしまい、それに伴い一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」と謂われのない噂が囁かれる事となった。こうした職場での風評被害に苛まれて苦悩した結果、とうとう漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)にはある程度落ち着きを取り戻し、明治大学の講師も務める(月給30円)。, その年の暮れ、高浜虚子から精神衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『吾輩は猫である』を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊っちゃん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。, 1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、作家としての名声が高まるにつれて来客が多くなり、仕事に支障をきたすようになったので、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。この日は誰が来てもよいことにしたので、漱石の書斎は多くの門下生が集まって語り合うサロンのような場になり、やがて「木曜会」と呼ばれるようになった(1906年10月8日付書簡によれば、10月11日から。)。, 1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走する(塩原事件)。, 1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。, 1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。, 同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。1912年(大正元年)9月、痔の再手術。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。, 1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる[注 6]。, 死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)。, 1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。, 夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。, 夏目家の系図(夏目氏系譜(武家家伝))によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年(元禄15年)旧暦4月、夏目兵衛直情の時、名主に任じられた[25]。, 現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。, 家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった[注 9]。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。, 漱石の門下生とされる者には、作家だけでなく、様々な分野の学者・文化人が含まれている。彼らによって漱石の影響は広汎な文化領域に及び、大正後期から昭和初期の知識人の間でスタンダードな価値観を形成した。そこで、戸坂潤はこの時期に「漱石文化」が成立していた[32]とし、その発信源となった門下生の集団は本多顕彰によって漱石山脈と命名されている[33]。門下の画家とされる津田青楓の「漱石山房と其弟子達」が彼らの姿を描いた絵画として有名で、以下の顔ぶれが見られる。, 漱石は彼らと、自分の後継者を養成するという意味での師弟関係を結んでいたわけではない。漱石が教員だった時期の教え子もかなりの割合を占めているが、多くは木曜の面会日(所謂「木曜会」)を中心に客としてやって来た青年で、漱石との交流を通じて強い感化を受け、門下を称するに至ったものである。ただ、漱石は木曜会においてもほとんど対等の立場で彼らと議論しており、徳田秋声は自分が師事した尾崎紅葉と比べ「漱石氏の場合は事情が少し違って、厳密な意味の師弟関係とはいへない、各人は相当自由な態度でゐられたやうに思ふ」という[34]。門下生の一人とされる阿部次郎も次のように述べている。, 「若し門下生とは、先生と正式に師弟の約を結んだ者を意味するならば、自分は先生には門下生なるものが全くなかったと云ひたい。固より先生の周囲には多くの若い人達が集ってゐた。先生と此等の人達との間には、先輩及び後輩として、今日の日本の文壇では他に見られないほどの親しみがあった。併し此等の人達は、先生がその道を伝へるために、特に簡抜された人達ではなかった。(中略)先生は唯その寛容な心を以て、自然にその門に集って来る青年を接見して、之と話をしたり、その相談に預かったり、時としてはその世話をされたりしたに過ぎなかった。所謂先生の門下生となるには、唯先生の風を慕って、木曜日にその家の客となれば足りたのである。先生と所謂門下生との関係は最初はこれほどの意味に過ぎない。(中略)先生はいつも独立を重んぜられる人であったから、所謂門下生に対して自分の意見を強制するやうなことは殆んどないやうに見受けられた。さうして実際先生と所謂門下生との間には、随分激しい意見の扞格があった。」[35], また、阿部次郎が挙げている漱石門下のリストには、白樺派の武者小路実篤や志賀直哉も含まれており、長尾剛も彼らを事実上の弟子としている[36] 。彼らは文壇に先輩や師を持たないというポリシーを持っており、漱石門下を自称することはなかったが、当時の文壇で漱石を最も尊敬していることを自認していて、漱石も彼らに目をかけていた。彼らを上記の門下生と区別して、「直接の門下生ではなかった」とする見解もある[37]が、漱石本人にそのような区分意識があったわけではない。, 門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会を中心になって仕切っていたので、「漱石門下の四天王」と称されている。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。第五高等学校時代から漱石と深い信頼関係にあった寺田寅彦は門下生中でも別格扱いされており、一番弟子と呼ばれることも多い[38]。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、瀬沼茂樹や 大岡昇平から「漱石の最も正統な継承者」と評されている[39]。また、漱石文学の多様な性格のうち、「反自然主義の文学伝統は芥川龍之介に、倫理性は志賀直哉に、浪漫性は内田百閒に」継承されたという見解もある[40]。これらの作家のうち、一般的人気が最も高いのは芥川であり、学術面では阿部次郎・安倍能成・和辻哲郎が大正教養主義を主導して戦前のアカデミズムに大きな影響を与えたことから、戸坂潤はこの四人を「漱石文化の代表者」としている[41]。出版業界において「漱石文化」を普及させた最大の功労者が岩波茂雄である。, なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙 (小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正3(1914)年、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤・野上弥生子らに依頼している。そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった[42]。(ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12(1937)年にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である)。また漱石は明治42(1909)年、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。, 大正4(1915)年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、二日後の時事新報に「新しき 愛媛県尋常中学校教師の漱石(1896年3月) 1895年 (明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、 菅虎雄 の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の 松山東高校 )に英語教師として … 夏目漱石の「こころ」は、高校の教科書に載っている。 昨年高2だった長女が授業で「こころ」を習っていた時に 「おかあさん、読んだことある? 複雑な話や・・・・何とも言えん。」と漏らしていた。 そして先日、友人のブログに「こころ」はBLの走り? 文スト(文豪ストレイドッグス)は実在した作家たちをモデルにしたキャラクターが、異能力といわれる特殊能力を使って横浜の街の平和を守っていく姿を描いたファンタジーアニメ作品です。爽快なアクションや個性的なキャラクターが多く登場する文スト。 夏目漱石の『こころ』は高校の現代文の授業の中で読んだ作品である。当時の自分は少し難しい表現をしているので読み終えるのに時間がかかり、初めて小説を読む自分は読むのに疲れてしまっていた。 今から104 年前の今日、すなわち明治45年(1912)5月28日、45歳の漱石は無性に「自画自賛」を作成したくなり絵筆を手にした。 「自画自賛」というと、たとえば広辞苑には「(1)自分の描いた画に自分で讃をすること。自画讃。(2)転じて、自分で自分のことをほめること。 It includes tags such as "文スト", "夏目友人帳" and more. 文スト保育園みんなのヒーロー・その名はオダサクマン! 敦と鏡花ちゃんでクレープパーティーをしたり、 中也が太宰に労いの言葉をかけたり…!? 今回も癒しの文ストワールドをお届け! 明治38年。夏目漱石 数え年39歳。不朽の名作『坊っちゃん』が生まれようとしていた 谷口ジロー×関川夏央が送る『坊っちゃん』の時代がフルカラー愛蔵版で12月14日発売!第2回手塚治虫文化賞受賞作。明治時代が今、鮮やかによみがえる。 デジタル大辞泉 - 余裕派の用語解説 - 初期の夏目漱石を中心とする写生文系統の作家、高浜虚子(たかはまきょし)・鈴木三重吉らの一派。現実に対して一定の距離を置く心の余裕を唱えた。写生派。→彽徊(て … 文豪ストレイドッグス 中島敦、太宰治、芥川龍之介など文豪の名を懐くキャラクターたちが繰り広げる異能バトルアクション! 原作:朝霧カフカ、漫画:春河35、監督:五十嵐卓哉、脚本:榎戸洋司、アニメーション制作:ボンズ The novel "ある日の邂逅" includes tags such as "夏目友人帳", "文スト" and more.  という、この期に及んで未だに満し得ぬ食欲への切実な願望だったのである。で、早速、医者の計いで一匙の葡萄酒が与えられることになったが、 このページでは『こころ/夏目漱石ーあらすじ・簡単な要約・読書感想文・解説』として、中学生にも理解しやすいような ”わかりやすさ” を第一に説明しています。【人間の愛】と【身勝手さ(エゴイズム)】について一緒に考えてみませんか? 「うまい」, ヤマトタケル - 聖徳太子 - 伊藤博文 - 夏目漱石 - 野口英世 - 北里柴三郎(予定), 狩野宛書簡に「洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰つて来た。日本人が英国人を真似ろ\/と云ふのは何を真似ろと云ふのか今以て分からない」と書いている。, 彼は其所で疱瘡をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。〉「道草」(39), 門下生が集まれば必ず牛鍋を囲む。羊羹、お汁粉、ケーキなど甘いものが好きで、特にお気に入りは自家製アイスクリームだった。胃弱のためには大量の鶏肉を使ったスープを飲んでいたという。なぜか鳥類のもらい物も多かった。シャモ、カモ、山鳥、キジなどで、知人宅での雁の料理に舌鼓を打ったこともあったらしい(河内一郎『漱石、ジャムを舐める』, これより前に漱石が使用した例としては「同時にスコット一派の浪漫派を生まんがために存在した時期である。」(『野分』11章、1907年1月)が最も早い。また翌年の講演『創作家の態度』では「浪漫派」「浪漫主義」の語句が多く用いられている。, 本多顕彰「漱石山脈」(『新潮』43(5)、1946年5月)なお、同論文は『新潮』編集者から「漱石山脈」という題で書くことを求められたものなので、厳密にはその編集者が命名者である。, 「思い出るまま(九)師弟と朋党」(『徳田秋聲全集』第22巻、2001年、八木書店)。紅葉の場合、門下生に交替で自宅の玄関番をさせたり、代作をさせたりするなど、徒弟制の性格が強いものであった。, 永田哲夫「白樺派研究 漱石への接近」、高知大学学術研究報告人文科学17(10)、1969年3月、高知大学, 佐々木亜紀子 野上彌生子の 先生 漱石という体験 教養と教育 共通科目研究交流誌 5 2005年 愛知教育大学, 『日本の文学 夏目漱石(三)』付録32「漱石山脈について」(中央公論社、1966年9月), 『漱石の漢詩』(文藝春秋・文春学藝ライブラリー(文庫)、2016年(平成28年)), 『「草枕」変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド』及び『漱石とグールド―8人の「草枕」協奏曲』参照, http://data.bnf.fr/ark:/12148/cb11917438j, 明治33年9月11日『官報』第5159号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9, 明治36年1月28日『官報』第5869号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2, 「博士称号を返上」東京朝日新聞1911年2月24日『新聞集成明治編年史.