ボードレール『ボードレール全集悪の華 1巻』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約0件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。 مسلسل الهيبة العودة الحلقة تحميل 11. Amazonでボードレール, 阿部 良雄のボードレール全集 1 悪の華。アマゾンならポイント還元本が多数。ボードレール, 阿部 良雄作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またボードレール全集 1 悪の華もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 悪の華(映画)のフル動画を今すぐ無料視聴したい方はコチラ! 悪の華(映画)をu-nextで視聴するには、 550ポイント(550円)が必要 です。 そこでu-nextの 【31日間無料トライアル】 に登録すると、 600ポイント(600円) が貰えるので、このポイントで悪の華(映画)を今スグ視聴することができます。 漫画の最終回ネタバレひどい『惡の華』終わったのにぶり返すの? 押見修造 別冊少年マガジン 2009年-2014年 全11巻 2013年にアニメ放送 全13話 あらすじ 中学編 主人公?は春日高男(かすが たかお)。 ボードレールの詩集『悪の華』を好む普通の中二病な中学生。 ボードレールの詩集「悪の華」人間はみんな偽善者? 19世紀フランスの詩人ボードレールの詩集 「悪の華」 は基本となる思想によって構成されたひとつの構築物だ。. ボードレール『悪の華』レスボス詩群を読む Une lecture du cycle des poèmes lesbiens de Charles Baudelaire 清水まさ志/富山大学芸術文化学部非常勤講師 SHIMIZU Masashi / Part-time lecturer, University of Toyama thKey Words: French literature, 19 Century poetry, Charles Baudelaire, The Flowers of Evil, Sappho, Lesbian 萩尾望都 春の夢 zip. 629019「ボードレール全詩集 悪の華 漂着物 新・悪の華」シャルル・ボードレール 筑摩書房 1998年 現在 1,000円 もうすぐ終了 惡の華 ボードレールに心酔する少年、春日高男。 抗いきれぬ衝動のままに、密かに想いを寄せ る佐伯奈々子の体操着に手をかけたその時から、 彼の運命は大きく揺れ動くことになる。  それでもボードレールは南海の楽園にいるより、ずっと生き生きしていた。ただ、「お母さま」の心だけが心配で、あいかわらずマザコンまるだしの手紙を母親に送っている。ここまでは、さすがのボードレールは三田佳子の息子か、さもなくば岸部シローのようなものなのである。 からである。筆者は、ボードレールの批評作品を 中心とした研究に引き続き、ひとつの詩的風土と して『悪の華』における「北方」性の解明を目指 した研究を進めている3。本稿もその研究の一環 として、『悪の華』初版における第四部「葡萄酒 「悪の華」一巻はボードレールが刊行した唯一の詩集である。というより、ボードレールはこの詩集に自分の人生の殆どすべてをかけた。 ボードレールはこの詩集を、単なる詩集にとどまらせることは望まなかった。何しろボードレールにとって、この詩集の初版を刊行したときには、すでに� ボードレール死後の1868年に、友人たちが編集しゴーティエの序文論考 を加えた『悪の華』(ミシェル・レヴィ版全集第1巻)が刊行された。補遺詩集『漂着物』(1866年)の詩篇を含め152編を収録し、 … 「ボードレール詩集」(新潮文庫、再改版2002年) 『悪の華』(齋藤磯雄訳、三笠書房/創元選書)。他に「全詩集」(東京創元社、1979年。「巴里の憂鬱」も併録) 『悪の華』(福永武彦訳、平凡社<世界名詩集>、1968年)。 「旅」と題するこの詩は、「悪の華」の最後に位置する作品であり、また「死」をテーマにした詩でもある。 何故旅が死と結びつくのか。それは先稿でも述べたように、死とはボードレールにとって、新しい世界への旅立ちでもあったからだ。 ★ ボードレール「悪の華」の訳詩集。原本のうち、22編を選んで訳出した。数は限られているが、有名なものはすべて収まっている。 新訳 「悪の華」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ [ 修正 2003.1.10. ] 「悪の華」の初版が出たのは1857年、時にボードレールは36歳であった。 詩人としては遅いデヴュであった。 だがボードレールが実際に詩を書き始めたのは20歳台始めのことであると思われる。  ぼくもまた推敲ならずうっとしていたいほうなのだ。ただし、「千夜千冊」以外の――。.  それでボードレールがぐれたのではない。パリに戻った一家のもと(師団参謀本部の中に住んだ!)、ボードレールはむしろ学業に才能を示し、ラテン語の詩と英語では成績第一に躍り出た。ラマルティーヌ、ヴィクトル・ユゴー、サント・ブーヴ、ドロクロアの絵がお気に入りだった。ちなみにこの時期のフランスは七月革命ののちの産業革命が驀進しつつあったころで、その一方でフーリエの空想社会主義、コントの実証社会学、バルザックの『人間喜劇』の観察が登場して、オーギュスト・ブランキの「季節社」の蜂起にパリが騒々しくなっていた。, この活気と反抗のパリのなか、成績優秀のボードレールもこっそり逸脱をたのしむようになっていた。ところがこの青少年はまだ逸楽には達していない。ユダヤ人の娼婦と交わって淋病となったときは、その手当に困って兄貴のアルフォンスに相談し、ことなきをえている。 Instagram 不 公開 破解. 映画「悪の華」のフル動画を無料で見たいですか?本記事では映画「悪の華」のフル動画を無料で視聴する方法を具体的に紹介しています。併せて、アニメ版の「悪の華」も無料で視聴できる方法なので、これから「悪の華」を楽しみたい方は、ぜひ参考にしてみてください。 悪の華(映画)のフル動画を今すぐ無料視聴したい方はコチラ! 悪の華(映画)をu-nextで視聴するには、 550ポイント(550円)が必要 です。 そこでu-nextの 【31日間無料トライアル】 に登録すると、 600ポイント(600円) が貰えるので、このポイントで悪の華(映画)を今スグ視聴することができます。  その後のボードレールの詩的宿命を大きく決定づけることになるポーは、二月革命からルイ・ナポレオンのクーデタの支配がおよぶ1849年に死んだばかりだった。ボードレールはここに「大西洋の向こうにいた精神の血液がつながる兄」を発見し、狼藉性・中毒性・怠慢性・幻覚性といった自分との著しい共通性に感極まっていく。ただちにポーの翻訳に連続的にとりくんだボードレールが、ポーのゴシックで悪魔的な幻想の呪いに夢中になったことは、いまさら言うまでもない。『悪の華』の冒頭の詩『祝祷』が、まさにポーに捧げられた自分自身の詩神性を宣言する作品だったのだ。その最初の一連は、こうである。, ボードレールがポーの中に発見したもの、それは「不吉」であったが、サバティエ夫人とマリー・ドーブランに見出したものは「高慢な慰撫」である。 惡の華 -押見修造の電子書籍・漫画(コミック)を無料で試し読み[巻]。ボードレールを愛する、文学少年・春日高男(かすが・たかお)。ある日、彼は、放課後の教室に落ちていた大好きな佐伯奈々子(さえき・ななこ)の体操着を、思わず盗ってしまう。 Amazonでボードレール, 安藤 元雄の悪の華。アマゾンならポイント還元本が多数。ボードレール, 安藤 元雄作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また悪の華もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 Amazonでボードレール, 安藤 元雄の悪の華 (集英社文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。ボードレール, 安藤 元雄作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また悪の華 (集英社文庫)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 ボードレール入門』06「2007年『悪の華』オルセー美術館」 *『悪の花』150周年記念講演、その1 [#r22d356d] 2007年10月2日. ‚éƒCƒ“ƒpƒNƒg‚ð‚à‚Á‚½B‚»‚ê‚قǁA¼—m‚ÌŽ‚Ì—ðŽj‚É‚Æ‚Á‚āA‚±‚ÌŽW‚ÌŽ‚Á‚½‰e‹¿—Í‚Í‹‘å‚Å‚ ‚Á‚½B‚±‚ÌŽW‚Í19¢‹I‚©‚ç20¢‹I‚É‚©‚¯‚āA¼—m‚É—¯‚܂炸A¢ŠE’†‚ÌŽl‚½‚¿‚ɃCƒ“ƒXƒsƒŒ[ƒVƒ‡ƒ“‚ð—^‚¦‘±‚¯‚½‚Ì‚Å‚ ‚éB. Amazonでボードレール, 大学, 堀口の悪の華 (新潮文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。ボードレール, 大学, 堀口作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また悪の華 (新潮文庫)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。  ただし、いよいよその才能が過去のすべてを取り戻す日が近づいていた。何度でも強調しておくが、ボードレールは食材をあとから加工して、それらを苦みソース付きのコレスポンダンス料理にする名人だったのである。, このあとのボードレールのことはよく知られている。バビロン街36番地の住居、あいかわらずの借金、『カリカチュアの歴史』『彫刻の歴史』を書こうとしたこと、二月革命の街頭で赤いネクタイを巻いたこと、ブランキの「中央共和派協会」への入会、プルードンとの出会い、群衆が狂気であることの驚き、いつまでたっても完成しない『冥府』の執筆、などなどだ。  パリでボードレールが生まれたとき、父親は62歳だったが、ボードレールが7歳のときに死んだ。翌年、母親は陸軍少佐と再婚してリヨンに移り住む。箪笥の奥にしまわれた「お母さま」の下着やクローゼットに掛かっている毛皮のコートに顔を埋めるような少年だったボードレールは、これで自我にめざめ、ほぼ完璧な男性である軍人の養父との無限の精神の軋轢の襞を知る。  きっと、このような特質の十分の一くらい(ひょっとすると半分くらい)は、ぼくにもまんべんなく備わっている。ぼくもまた寺山修司以上に覗き見が大好きで、女性の深みにつねに溺れていたい少年で、そのくせ「冷え寂び」大好き人間なのである。 漫画の最終回ネタバレひどい『惡の華』終わったのにぶり返すの? 押見修造 別冊少年マガジン 2009年-2014年 全11巻 2013年にアニメ放送 全13話 あらすじ 中学編 主人公?は春日高男(かすが たかお)。 ボードレールの詩集『悪の華』を好む普通の中二病な中学生。 コレスポンダンス。 ボードレールはこの処置を不服とし、1861年(40歳)に32篇(35篇?)を増補した 「悪の華」第2版 を出版しました。この頃から散文詩への関心が本格化しました。 この「悪の華」の卑猥的、耽美的、背教的な内容は、後の世代に絶大な影響を与えました。  とくに水夫の一人がアホウドリを撃って紐に縛り、パイプの火でアホウドリの嘴をいたぶろうとしたときは、ボードレールはこの水夫に殴りかかって、船長に引き留められたほどだった。このときの体験が、『悪の華』のなかで最も美しい詩だと評判になった「しばしばよ、なぐさめに、船人等」に始まる『信天翁』である。ともかくボードレールはあとから「そのこと」を謳うのだ。 「シャルル・ボードレール」の名前は知らなくても、アニメ『悪の華』はご存知の方がいるのでは?アニメと同じタイトル『悪の華』の作者「シャルル・ボードレール」とはどんな人なのでしょうか。 ・プロフィール まずは簡単なプロフィール紹介から。 ボードレール シャルル・ピエール: 作家名読み: ボードレール シャルル・ピエール: ローマ字表記: Baudelaire, Charles Pierre: 生年: 1821-04-09: 没年: 1867-08-31: 人物について: 「シャルル・ボードレール … 悪の華改版 - シャルル・ボードレール - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。 そのひとつが『悪の華』に有名な「死体に添寝する死体のやうに、或る晩僕は醜悪なユダヤ女の側にゐた」で始まる詩であった。 このなかでボードレールは、このお乳が垂れているような醜悪な娼婦と交わりつつも、絶世の美女を想像するのである。 Morning bgm ダウンロード.  しかし、これらの時期での最大の事件は、なんといってもエドガー・アラン・ポーの作品に接したことと、高級娼婦サバティエ夫人および女優マリー・ドーブランに出会ったことである。 悪の華☆(全訳)☆ - ボードレール - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。  この一語にはボードレールの想像力のすべてが対応しているというべきだ。1859年、ボードレールは想像力が森羅万象を解体し、その素材によって新たな世界像を言葉によってコレスポンダンスに現出しうることを決定的に確信したものだ。コレポンをボードレールがつくるのではなくて、ボードレールがコレポンに入ってしまうこと、それがコレスポンダンスだった。それは一個の小さな香水壜をしてさえ、時空とのコレスポンダンスを現出させるに足りた。『悪の華』の「香水の壜」は次のように、そこを謳う。, ボードレールの照応は、自然の中での照応ではない。方法の中での照応である。合理的なものじゃない。言葉の化学反応の中での照応だ。とくに事物どうしが時間の中で照応しあうことに、ボードレールは自分のいっさいの想像力を浪費した。 ボードレール全集1 悪の華 / ボードレール 阿部良雄個人訳 即決 1983 ( 昭和58年 ) 初版・函・月報付 函スレ 月報と別紙の端を見返しに糊付 / 筑摩書房 / a5判 アク ノ ハナ 24678 ※函・カバー・帯・月報・その他付属品類がある場合は明記します。 悪の華 ダウンロード 無料 ⭐ トラトラゴールド vol 94 神田美穂 hd.  けれどもここで、ボードレールはついに逆世界があることを発見した。自分が求めているのがこのような自然と人間による恩恵ではなくて、パリの裏町で感じた、あの都会の喧騒と埃と、あのふしだらなものたちの交流であったということを――。一瓶の中に万物が入りこんでしまう古びた机がありうるということを――。  このエッセイは1976年の「存在と精神の系譜」のためのもので、「とりかえしえぬものが呪われた歯でかじる」「脳髄の祝祭という時間」というボードレールの一行を敷延したものだった。25年前のエッセイになる。ボードレールの「アレゴリーという深さをもつ時間」「感動を多様化することによってひきのばされた時間」に注目して書いた。 悪の華には「死」をテーマにした作品群があり、それらは La Mort と題されている。それに対してこの詩は Le Mort であるから、死ではなく死者を歌ったものとわかる。しかもその死者は陽気な死者だとい … ボードレール『悪の華―ボードレール詩集』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約0件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。 ボードレール・悪の華で探している詩があります。フランス人の方から、『悪の華』にある『le madrigal triste』という詩を読んで欲しいと言われたのですが、私の所持している文庫にはそのようなタイトルの詩がありません。岩波文庫、鈴木  かくしてついに刊行されたのが『悪の華』だった。周知のように『悪の華』はあっというまに告訴され、その汚濁趣味、悪魔主義、姦淫肯定などが処罰の対象となった。ボードレールは作品ではなく、罪状で有名になった。, ボードレールが「覗く人」であって、とんでもなく長期にわたったマザコンであり、「体験をずっとあとから加工していく詩人」であって、女性の深みに溺れる少年であり、自分だけがしきりに「苦み」を気に入っている快楽追求者であることは、だいたい以上のような話で充分に察せられることだとおもう。 アンドレ・ギュイヨー. だがボードレールはその片思いを無駄には終わらせなかった。その思いの中から「悪の華」を飾るさまざまな詩想を引き出したのだった。 マリー・ドーブランとの間では、ボードレールは一歩踏み込んだ態 …  サバティエ夫人はテオフィル・ゴーティからは「女議長」の、男たちからは「アポロニー」の“尊称”を与えられていた当時をときめく高級娼婦で、数々の有名人の愛人をへて鉱山王によって邸宅調度をすべて与えられ、言ってみれば「社交界の好色」を一手に引き受けていたようなところがあった。まあ、叶姉妹のようなものである(か、どうかは知らない)。ボードレールはこのような女性がいることにおおいに感激し、やたらに献詩を送っている。  事情はこうである。  しかしこのようにボードレールがのちに世界の詩壇を震撼させるような、つまりは“罪の聖書”を書いた詩人としてコレスポンダンスな想像力を発揮するのは、カルカッタ行の航海をしてからなのだ。これはしだいに捻じくれて、借金をするようになってきた青少年シャルルの所業に困りはじめ義父と兄貴が、「こいつはひとつ、航海にでも出したほうがよい」と判断したためだった。, こうして1841年6月、ボードレールは商船「南海号」に乗船させられて一路赤道に向かっていく。のちの作品や手紙からすると、この航海でボードレールは決してしょぼくれてはいない。すべての出来事を克明に胸に刻んでいた。 パリ、オルセー美術館. ベアナックル2 rom.  そんな「想像としての苦み」を通してボードレールが何をしようとしたかといえば、「照応」という一事が万事であった。まさに万象反応・万物照応、“correspondances”である。  そうなのだ、ボードレールは自分が「苦み」を渇望していたことを知ったのだ。, ボードレールはパリに戻り、ふたたび借金生活をし、混血のあばずれ女のジャンヌと暮らし、友人から借り受けた美術品を室内にしばらく飾っては、これを売っ払うという日々に入っていく。まったく売れなかったという『一八四六年のサロン』の一冊、すなわちフランス史上初の美術批評文はこのときの産物である。 悪の華改版 - シャルル・ボードレール - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。 ボードレール『悪の華』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約147件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。 ボードレールの作品の独自訳の公開と、非専門家の方に向けた平易な表現によるボードレールの紹介.  ぼくはかつて、このコレスポンダンスについてのエッセイ「人工ネズミのゼンマイを巻くべきか」(のちに「人工時間の祝祭者」と改題)で、ゼンマイ仕掛けのネズミを少年が棚の上に放置しているからといって、それを親たちが「うちの子供はすぐ倦きるんですよねえ」と言って子供を詰るのはよしなさいと書いたうえで、「冗談じゃない。お母さん、あなたのほうが芸術的すぎる!」と結んだことがあった。 しかし、ボードレールが発表した「悪の華」では、形式や字数の枠を越えた「散文詩」の形で、詩を空間的芸術にまで高めました。 内容は卑猥・耽美・背教的とアンニュイな世界観が溢れています。 「ボードレール」は19世紀のフランスを代表する詩人です。生前に刊行された唯一の詩集『悪の華』によってフランス近代詩の創始者となりました。この記事では、ボードレールとはどのような人物なのかとその生涯を紹介します。作品と名言も紹介しています。 悪の華 - 1857年版 - シャルル・ボードレール - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。 ボードレール全詩集〈1〉悪の華、漂着物、新・悪の華 (ちくま文庫) シャルル ボードレール , Charles Baudelaire 他 | 1998/4/1 5つ星のうち4.1 17 top > 詩作品 > 悪の花 > 『悪の花』056 秋の歌 『悪の花』056 秋の歌 秋の歌 Ⅰ. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 悪の華の用語解説 - フランスの詩人ボードレールの詩集。 1857年初版,61,62年改訂。 15年をこえる詩作生活のすべてを注ぎ込んだ唯一の韻文詩集で,全体は6部に分れ,詩の配列には,詩人自身の構想による統一と連関が与えられている。 ◆きのう、浅草のギャラリーで、松田行正・臼田捷治と「戸田ツトムのブックデザイン展」をめぐる鼎談をしてきた。聴衆はすべてリモート。こんなに早く戸田君が亡くなるなんてと思いながら話したので、あの繊細で鋭く、切断と陰影に充ちていた戸田君のエディトリアルデザインを偲ぶのが痛ましかったが、せめてブックデザインやエディトリアルデザインのことがもっと世の中の話題にのぼるようにとの思いで、あれこれ話した。◆本というもの、実に多様な職人と諸事情とコンテンツが集約されて出来上がっているもので、「著者がいて、本ができました」なんてことはありえない。版元、エディター、著者、ライター、文字組、写真家、図版屋、印刷関係者、製本、書店、販売営業、帯づくり、いろいろな努力としくみが複合化する。それが本だ。ブックウェアだ。なかで「造本」という領域が実に多彩な仕上げに向かっているわけで、この分野のことはもっともっと語られなくてはいけない。◆ぼくはさいわい杉浦康平さんの薫陶を受け、30代に「遊」を通して多くのクリエイターに出会えてきたので、本や雑誌がどのように出来上がり、どんな才能が起爆したり切り取られていくかをつぶさに間近で体験することになったけれど(その現場に戸田君もいたわけだが)、いまは何でもネットでコミュニケーションができると思われ、ウェブユーザーがオーサリングできていると勘違いされているので、本の「独壇場」がどんなものかは、ますますわからなくなっている。残念だ。◆貨幣が電子マネーになったわけではなく、森の生活が都市のビル住まいになったわけではなく、演劇が古典ギリシアとともにあるように、今日の本も2000年にわたる積層された変遷を、いまなおあれこれ演じているのである。戸田君や松田君はそれを引き受けてきた。◆そういう本の姿を思い切った方法でもっと堪能してもらおうと思って用意した「エディットタウン」が、角川武蔵野ミュージアムの4階に、高さ8メートルの本棚劇場とともにオープンした。ワインディングするブックストリート、違い棚ふうの本棚、大小4段階におよぶ立体見出しの出入り、天井から吊り下がる数々の多変バナー、横置きを辞さない提示法、本棚に埋め込まれたチビモニターたちなど、いろいろ工夫してみたので、かなり賑やかだ。おかげでかなり話題になっている。◆本はつくるときにはいろいろの手立てが総合されているのだが、これがいったん流通に入ると、まことに寂しく、通りいっぺんになる。大手取次店の配本にもとづき、書店も図書館も十把一からげになっていく。図書館の10進分類も管理のためばかりで、なんら訴求力がない。閲覧室は病院のようだし、書庫は墓場のようだ。◆とくに書店は、もっと好きに棚組みをしたり好きに飾ってもいいはずで、本以外のものも置いてもいいのに、そうしない。これではネットに顧客を奪われても仕方ない。だいたい書店はサービス業だと思っていないようだし、書店員は「いらっしゃいませ」も「ありがとう」も言わない。本を見て、本を選ぶという行為にまつわる工夫もしない。たとえば本は3冊以上持ってレジに行くのが手いっぱいになるのだが、ちびカゴもカートもない。◆一番まずいのは、書店は「知的なお店」だと思いすぎていることだ。本はそもそもありとあらゆる分野をカバーしているコモディティで、そこには哲学からポルノまでが、お仕着せから被害の告発までがある。くだらない本もたくさん混じっていて、それで本屋さんなのである。済まして並べていて、いいわけがない。◆ついでに言うけれど、ブックカフェなるものもふえているようだが、かっこを付けすぎていて、いただけない。もっと、片隅にボロボロのマンガ本が並んでいた昭和の喫茶店のようものも、復活してほしいのである。ぜひエディットタウンを見てほしい。, ◆トランプは血迷っているから今年いっぱいの先行きがどうなるかはわからないが、大統領選挙はバイデンに軍配を上げた。だったらバイデン、ハリスのお手並み拝見である。それはそれとして、ここに至るまで、日本のマスコミや論壇やコメンテーターがトランプの暴論暴走を正面きって叩かなかったのが、なんとも信じられない。バイデンとの政策比較に汲々としたからだろうが、暴論暴走は大いに叩けばよろしい。様子を伺って、それまでは右顧左眄して、結果が出てから「ほれ、みたことか」と言うのは、もうやめたほうがいい。ジャーナリストも論者も育たない。◆アメリカではトランプを「性差別の先頭を走る」「マフィアのボスだ」「管制塔に紛れこんだ12歳児」といった批判が乱れとんだ。ボルトンやコーミーらの元側近による暴露本も囂(かまびす)しかった。それらのトランプ批判がどのように的を射ていたかはべつにして、これにくらべると、日本はたんに臆病だった。情けない。◆理由はいくつもあろうが、そのひとつに、いつのまにか日本の論調が、ひたすら「わかりやすさ」に向かうようになったということがある。お粗末きわまりないけれど、どこもかしこも「わかりやすさ」に落着することを選ぶようになった。事の是非に鉄槌を食らわせることも、文春砲まかせで、できるだけ避けるようになった。◆最近、河出の編集出身の武田砂鉄が『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版)を書いて、「わかりにくさ」において気持ちが通じることの重要性を説いていた。その通りだ。「偶然」に対する希求と筋力が落ちているという指摘も、その通りだ。武田は『紋切型社会』(朝日出版社)や『日本の気配』(晶文社)でも、そうした山本七平の「空気」批判のようなことを書いていた。ただし、なぜ「偶然」(偶有性)がすごいのかを説明しなかったのが残念だった。◆「わかりにくさ」といえば、日本の左翼活動の言説はまことにわかりにくかった。60年代半ば、ぼくもその一翼にいたのでよくよく実感したが、わかりにくければそれでいいというほど、舌足らずでもあった。ブント用語、全共闘用語というものもあった。では、なぜそんなふうになったのか、その事情の渦中を浮上させようという試みが、このところふえてきた。情況出版や明石書店など、いろいろ新たな分析が出ているし、懐かしい津村喬の『横議横行論』(航思社)や長崎浩の『革命の哲学』(作品社)なども出ているが、鹿砦社が構成した『一九七〇年 端境期の時代』を興味深く読んだ。◆田原総一朗のインタビューから始まって、フォークをやめた中川五郎、水俣病闘争の渦中にいた矢作正、大阪万博をふりかえった田所敏夫、新宿で模索舎をやりつづけた岩永正敏、赤軍事件背景を「山小屋論」として綴った高部務、そして板坂剛による仮想「革マルVS中核」ディベートやよど号事件以降ピョンヤンにいる若林盛亮の回顧談など、いずれも読ませた。1970年の詳細な年表も挿入されている。◆1970年は、東大全共闘が撃沈し、安保改定が確立し、大阪万博が開かれ、三島由紀夫が自害した年である。数々の「わかりにくさ」と「犠牲」と「総括」が渦巻いた最後の年であったかもしれない。, ◆コロナと猛暑とリモートワークで日本がおかしくなっている。だいたいGOTOキャンペーンが最悪の愚策だった。そこに自治体首長たちの自粛要請、保健所とPCR検査の機能麻痺、しだいに重々しくなってきた医療危機、発言確認ばかりで満足しているリモートワークが重なり、それに猛暑日・熱帯夜・熱中症が加わった。おかしくないほうが、おかしいほどだ。◆外出自粛でコトが済む時期はとっくに過ぎた。水道の元栓を開いたままで蛇口の分量を調整しようというのだから、これではコトの予測さえ成り立たない。そこをたんなる自粛で乗り切ろうとすると、「いびつ」がおこる。外出先を制限すれば、居住性のほうに危険が移る。いまや危険なのはキャバクラやホストクラブではなくて、家庭のほうなのである。お父さんが自宅で仕事をして、大きい姉さんが仕事場に出られず、弟が学校に行けず、早やめに小学校から帰ってきた末っ子が騒ぎ、いよいよ爺さんか婆さんが勝手な望みを言い出せば、母親は苛々するばかりだ。おかしくならないほうが、おかしい。◆ところでコロナ・パンデミックについての論評には、まだ芳しいものがない。なかでイタリアの素粒子物理学者パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』(早川書房)は、コロナ発祥拡散直後の3月に書かれたエッセイで、1カ月ぶんの激変の中で綴られた、涼やかだが、思慮深いエッセイだった。◆ジョルダーノが言いたいことは次の5点だ。①いま僕らの頭脳が試されている、②われわれはまだ複雑性についての対処に取り組めていなかった、③感染症の数学として、感受性人口(Susceptibles)、感染人口(Infection)、隔離人口(Removed)の3つのパラメータによるSIRの計算が必要である、④市町村の単位ではない共同体についてのモデルを考えなければならない、⑤感染症の根本要因は僕らの軽率な消費活動にある。◆日本ではダイヤモンド・プリンセス号に入った岩田健太郎の『新型コロナウイルスの真実』(KKベストセラーズ)や病理医の堤寛による『感染症大全』(飛鳥新社)などのような啓蒙書か、富山和彦『コロナショック・サバイバル』(文芸春秋)、高橋洋一『コロナ大不況後、日本は必ず復活する』(宝島社)、ムックの『アフターコロナ』(日経BP社)などの経済コロナ対策本が多い。緊急に小説も書かれた。たとえば海堂尊の『コロナ黙示録』(宝島社)だ。海堂得意の桜宮サーガのバチスタ・シリーズに乗せた政権批判小説だった。病理と国際政治学との関連性にふれた詫摩佳代の『人類と病』(中公新書)もあった。◆野田努君らのエレキング・ブックスからは『コロナが変えた世界』(Pヴァイン)が刊行された。ブライアン・イーノとヤニス・ヴァルハキスのポストコロナ社会のヴィジョンをめぐる対談が目玉になっていたので期待したが、これは得るものがほとんどなかった。イーノがこんなにも能天気だとはがっかりする。それより内田樹、宮台真司、上野千鶴子、篠原雅武に対するインタヴューの答えのほうが、ずっとおもしろかった。◆内田は、コロナ問題でまたまた日本の統治機構の劣化と、日本人が「ものさし」をつくっていないことが露呈したと指摘。『方丈記』とともに漱石の『草枕』を推薦しているのが粋なはからいだ。上野の指摘はすべての問題は平時の矛盾が有事に出てきたという見方が一貫して、ゆるがない。女子問題にまったく言及しない小池都知事に苦言も呈した。篠原は「人新世」の前触れとしてコロナ禍をとらえ、マイク・ディヴィスやデイヴィッド・ウォレス・ウェルズの素早い反応なども紹介していた。◆宮台は、各社会の危機管理の性能とその性能に応じた社会の支えがアンバランスであることを指摘したうえで、アメリカにはアレとコレが両立しない共時的矛盾があるが、日本にはかつての作法が通用せず、それなのに今日に通用する作法がまったくできていないという通時的矛盾がはびこっていると強調した。これは当たっている。ようするに日米両方ともにゼロ・リスクを求めるために思考停止がおこっているわけで、宮台としてはそれを突破するには「もっと絶望を」ということになる。◆多くの識者を集めた『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』(河出書房新社)も緊急出版だったが、こちらは一番大きな展望を提供した大澤真幸、シニカルな與那覇潤・笙野頼子、病理の仲野徹、アフリカ研究の小川さやか、ドゥルーズ派の堀千晶などが読ませたが、全体としては目次もあとがきもない促成本だ。ところで、GOTOキャンペーンとともに、大きなお世話だと言いたいのが「ステイホーム」の標語だが、どこかの首長が「どうぞ、ゆっくり本をお読みください」と言っていたのとはうらはらに、圧倒的にネット読みとテレビ視聴率が上がっただけだったらしい。, ◆ぼくの仕事場は、建物としては赤堤通りの角の3階建のスペースそのものである。そこは編集工学研究所が借りていて、1階の井寸房(せいすんぼう)や本楼(ほんろう)、2階のイシス編集学校の事務局にあたる学林と制作チーム、3階の企画プロデューサー・チームと総務・経理などに分かれている。その3階に松岡正剛事務所も入っていて、ここに太田・和泉・寺平・西村の机、そしてぼくの作業用書斎がある。◆作業用書斎といってもとても小さい。部屋ではなく書棚で囲んだ領土(領分)になっていて、8畳まで広くない。ふだんは、この「囲い」の中の大きめの机の上にシャープの書院とDELLのパソコンが並んでいて、二つを同時に使って執筆する。両方とも通信回線は切ってある。だからぼくへの通信は松岡正剛事務所のスタッフを通してもらわなければならない。ケータイ(スマホは持たない)も番号を知る者はごく少数なので、めったに鳴らない。メールも切ってある(メールは30年間、使っていない)。◆「囲い」の書棚には、数えたことはないけれど、3000冊ほどの本がぎっしり詰まっている。思想系の本と新着本と贈呈本ばかりで、選書の基準は「できるだけ複雑に」というものだ。「面倒がかかる本」ばかりが集まっているのだ。ただ、すでに満杯である。だからときどき棚卸しをして、各階に配架して隙間をあける。配架といっても、全館の書棚にはすでにおそらく6万冊以上の本が入っているので、こちらももはや溢れ出ている状態だ。だから二重置きしているほうが圧倒的に多い。それでも、たいていの本の位置は太田と寺平がおぼえている。◆作業書架「囲い」には、本と机とPCのほかには何もないが、二つだけ格別なものが用意されている。ひとつは肺癌手術をしたあと、事務所が導入してくれたリクライニングチェアだ。食後や疲れたときにここに坐り、たいてい本を読む。ほどなくして疲れて背を倒して寝る。これはほぼ日課になってきた。◆もうひとつはこの「囲い」ができた当初から和泉が用意してくれたもので、洋服箪笥と狭いクローゼットが書棚の裏側に隠れるようにして、ある。ここで着替えるのだが、この作業がぼくには必須なのである。本を摘読することと着替えることとは、まったく同義のことであるからだ。「本」と「服」とは、ぼくにはぴったり同じものなのだ。実はもうひとつ同義なものがある。それは「煙草」と「お茶」(あるいは珈琲)だ。◆以上、ぼくは、こんな「ほんほん」な状態で日々を送っているのです。ちなみに自宅の書斎はもっと小さい。書院とipad、それに書棚が二つで、本の数はごく少量だ。いつも300冊くらいが少しずつ着替えているくらいだと思う。, ◆自粛とテレワークが強いられているが、メディアで見ているかぎり、有事の中の緊張はないようだ。戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。◆緊急事態宣言が解かれても、ワクチンや治療剤が登場するまでは、なお異常事態が続いていくとも見るべきである。その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。経営もしだいに逼迫していくだろう。なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。◆一般に、多くの医療は「至近要因」に対処する。人間一人ずつに対処して治療する。これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。いわば人類が相手なのである。人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。◆かつて動物行動学のニコ・ティンバーゲンは、そのように「生きもの」を見る前提に「4つのなぜ」があると説いた。①適応の機能に関する「なぜ」、②系統発生にもとづく「なぜ」、③器官や分子に関する「なぜ」、④個体の維持に関する「なぜ」、の4つだ。これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。ゼツヒツの1冊だ。◆こういうふうに、われわれを「生きもの」として見る医療は「進化医学」とも言われる。進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。◆このような進化医学については、定番ともいうべきランドルフ・ネシーの『病気はなぜ、あるのか』(新曜社)が興味深かった。「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。◆進化医学をもう少し突っ込んでいたのは、ぼくが読んだかぎりでは、シャロン・モアレムの『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』(NHK出版)やポール・イーワルドの『病原体進化論―人間はコントロールできるか』(新曜社)だ。いずれも大いに考えさせられた。イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。, ◆先だってちょっとばかり濃いネットミーティングをしたので、その話をしておく。COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。◆毎期のHCUでは、最終回は塾生を相手にぼくのソロレクチャーと振り返りをするのが恒例定番になっていたので、一応同様のことをしようと思ったのだが、せっかくネットワークを通すのだから、過去期の塾生にも遠州流の家元や文楽の三味線やビリヤードの日本チャンピオン(大井さん)などのゲストにもネット参加してもらい、さらにイシス編集学校の師範何人かに参加を促した。◆加えてベルリン、上海、シリコンバレーからの視聴・発言も促し、過去期ゲストの大澤真幸、田中優子、ドミニク・チェン、鈴木寛、池上高志、武邑光裕、宮川祥子さんたちも、フルタイムないしは一時的に参加した。さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。◆オンライン・ミーティングソフトはZOOMにしたが、それだけでおもしろいはずがない。まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。だからテレワークをしたわけではない。ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。◆たんなるテレワークというなら、45年前に杉浦康平と毎晩2時間ずつの電話によるテレワークだけで分厚い『ヴィジュアル・コミュニケーション』(講談社)1冊を仕上げたことがあった。当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。◆というわけで4月25日は、テレワークでもネット会議でもなく、新たなメディアスタイルを試みたかったわけである。はたしてうまくいったかどうか。それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。◆かく言うぼく自身も、こんな試みを多人数でするのは初めてのことなので、中身もさることながら、いったい自分がどんなふうにリアルとネットを縦断したり横断したりすればいいのか、きっと自動カメラの前に顔を貼り付けてばかりいたら、すべてが「死に体」になるだろうと思い、大きな鉄木(ブビンガ)の卓上でたくさんの本を見せたり、動かしたりすることにした。書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。◆そこへ編集学校でテスト済みの、ときどきスケッチブックに太い字を書きながら話すということも混ぜてみた。けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。76歳には過剰だったのかもしれない。まあ、それはともかく、やってのけたのだ。◆今期のHCUのお題は「稽古と本番のAIDA」だった。すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。◆すでに今期の参加者全員がぼくの千夜千冊エディション『編集力』(角川ソフィア文庫)を課題図書として読んできてもらっていたので、随所に『編集力』からの引用などをフリップにして挿入した。たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。◆一方、ウイルス・パンデミックの中でこのAIDAを振り返るには、きっとこういう時期にこそ「平時と有事のAIDA」を議論しなければならないだろうと思い、話をしばしばこの問題に近寄せた。とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。◆とくに「有事」はエマージェンシーであるのだからこれは「創発」をおこすということであり、さらにコンティンジェンシーでもあるのだから、これは「別様の可能性をさぐる」ということなのである。このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。そのことに苦言を呈した。もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。◆もうひとつ強調しておいたのは、いまおこっていることはSARSやMARS以来のRNAウイルスの変異であって、かつ「ZOONOSIS」(人獣共通感染状態)の変形であるということだ。つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。◆そんな話をしながら、7時間を了えた。ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。, ◆世界中がウイルス・パンデミックの渦中におかれることになった。RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。◆ちなみに「変異」や「変異体」は21世紀の思想の中心になるべきものだった。せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。◆それにしても東京もロックダウン寸前だ。「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。そのうち放逐されるだろう。◆もともとぼくは外に出掛けないタチで(外出嫌い)、長らく盛り場で飲んだり話しこんだりしてこなかった。学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。下戸でもある。だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。◆これはギリとニンジョーからするとたいへん無礼なことになるのだが、ぼくのギリとニンジョーはどちらかというと孟子的なので、高倉健さんふうの「惻隠・羞悪・辞譲・是非」の四端のギリギリで出動するようになっている。たいへん申し訳ない。◆ついでにいえば動物園はあいかわらず好きだけれど、ディズニーランドは大嫌いだ。レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。◆スポーツ観戦は秩父宮のラグビーが定番だったけれど、平尾誠二が早逝してから行かなくなった。格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。ごめんなさい。子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。◆つまりぼくは、できるかぎりの脳内散歩に徹したいほうなのである。それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。◆ところで、3月20日に『日本文化の核心』(講談社現代新書)という本を上梓した。ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。◆ほぼ同じころ、『花鳥風月の科学』の英語版が刊行された。“Flowers,Birds,Wind,and Moon”というもので、サブタイトルに“The Phenomenology of Nature in Japanese Culture”が付く。デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。出版文化産業振興財団の発行である。◆千夜千冊エディションのほうは『心とトラウマ』(角川ソフィア文庫)が並んでいる最中で、こちらはまさに心の「変異」を扱っている。いろいろ参考になるのではないかと思う。中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。, ◆このところ、千夜千冊エディションの入稿と校正、ハイパーコーポーレート・ユニバシティの連続的実施(ビリヤード、遠州流のお茶)、講談社現代新書『日本文化の核心』の書きおろしと入稿、角川武蔵野ミュージアムの準備、ネットワン「縁座」のプロデュース(本條秀太郎の三味線リサイタル)、九天玄気組との記念的親交、イシス編集学校のさまざま行事などなどで、なんだかんだと気ぜわしかった。◆こういうときは不思議なもので、前にも書いたけれど、隙間時間の僅かな読書がとても愉しい。1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。◆さて、世間のほうでも隙間を狙った事態が拡大しつつあるようだ。新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。◆ウィルス(virus)とはラテン語では毒液とか粘液に由来する言葉で、ヒポクラテスは「病気をひきおこす毒」だと言った。けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。まさに隙間だけで動く。◆定義上は「感染性をもつ極微の活動体」のことではあるのだが、他の生物の細胞を利用して自分を複製させるので、まさに究極の生物のように思えるのにもかかわらず、そもそもの生体膜(細胞膜)がないし、小器官ももっていないので、生物の定義上からは非生物にもなりうる超奇妙な活動体なのである。◆たとえば大腸菌、マイコプラズマ、リケッチアなどの「バイキン」は細胞をもつし、DNAが作動するし、タンパク質の合成ができるわけだ。ところがウィルスはこれらをもってない。自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。だから他の生物に寄生する。宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。◆気になるのはウィルスの中核をつくっているウィルス核酸と、それをとりかこむカプシド(capsid)で、このカプシドがタンパク質の殻でできている粒子となって、そこにエンベロープといった膜成分を加え、宿主に対して感染可能状態をつくりあげると、一丁前の「完全ウィルス粒子」(これをビリオンという)となってしまうのである。ところがこれらは自立していない。他の環境だけで躍如する。べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。◆おそらくウィルスは「仮りのもの」なのである。もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。◆ということは、これは知っていることだろうと思うけれど、われわれの体の中には「悪さ」をしていないウィルスがすでにいっぱい寝泊まりしているということになる。たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。◆急にウィルスの話になってしまったが、ぼくが数十年かけてやってきたことは、どこかウィルスの研究に似ていたような気もする。さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。, ランボオが“desorienter”(途方にくれる)であるとすれば、ボードレールは“derealisation”(現実感の喪失)だ。ランボオが“informe”(不安定)であるのなら、ボードレールはその逆の“cemtralisatiom”(集中的)だった。